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「適性検査」の歴史

世界で初めて試験を行ったのは中国の隋
“公平な機会”を目指した官吏登用試験制度「科挙」だった

イメージ適性検査を語る時、忘れてはならないのが中国の王朝・隋で587年から始まった、官吏登用試験制度の「科挙」である。広く一般から“官吏”として優秀な人材を採用しようと試みたこの制度は、43万文字を超える四書五経をいかに記憶しているか――いわば、四書五経の記憶蓄積量を測定するものだった。その後、中断されたり、形を変えたりしながらもこの制度は1904年まで続き、中国国内ならず、19世紀の西洋の試験制度や明治維新後の日本の試験制度へと多大な影響を与えたと言われている。

改めてこの「科挙」について考えてみると、採用活動が“地縁”や“血縁”の有無、あるいは“争い”の勝敗などに関係なく、“公平な機会の提供”のもと、“公平な人物評価”を行おうとして成立したものであることがわかる。また、この試験制度が“誰もが官吏になれるチャンス”をもたらすものであったため、多くの人材が勉学に励み、人民に対する教育効果という副産物ももたらすことになった。

ただし、現在、適性検査と呼ばれるものと比較してみると、「科挙」に不足していたのは行動を予測するための測定であろう。これはその後、時代背景が変わり、適性検査が開発されていくなかで、個人差の存在を考え、いかに数値で捉えるかという課題として考えられていくことになった。

個人差の測定を唱えたのは
心理学者ではなく生物学者だった

さて、先ほど科挙が19世紀の西洋や明治維新後の日本の試験制度に影響を与えたことに触れたが、この段階での目的はまだ“序列づけ”に留まっていた。その後、能力や性格などの個人差を測定する“科学的アプローチ”が生まれたのは1884年、英国人F.ゴールトンによって創設された人類測定研究室に端を発する。興味深いのは、このゴールトンが生物学者であることだ。彼が着目したのは“生物には個体差があり、遺伝するのと同様、人間にも個体差があり、遺伝がある”ということ。その考えに基づき、“優れた人物特性を後世に残そう”と作ったのがこの人類測定研究室だったのである。

この研究室を皮切りに、時代は個体差を認め、それを数値化して測定しようとする考え方へと移行。さまざまな社会的要請も受けるなかで、本格的な測定ツールの開発へと進んでいった。

1900年代初頭より世界で続々と測定ツールが開発
20世紀前半には現在の能力・性格適性検査の基本が完成

具体的な測定ツールとして世界で初めて開発されたのは、「科挙」が廃止された翌年1905年、フランスの心理学者A.ビネー(Binet, A.)とTh.シモン(Simon, Th.)による「知能検査開発」で、子どもが義務教育のカリキュラムを受けられるかどうかの学習能力評価に作られたものである。その後、同じくフランスにおいて、路面電車の運転手の採用選考に適性検査が行われるようになり、1915年には多肢選択式の検査が普及することになった。

一方、現在では最も適性ツールの開発・運用が行われている国の一つであるアメリカでは、1900年代前半に心理学者であるR.S.ウッドワース(Woodworth, S.)によって世界初の“性格”適性検査が開発された。これは「パーソナル・データ・シート」と呼ばれる質問紙法の検査で、軍人の情緒安定性を評価するための一資料とすることを目的に作られたものである。

その後、1921年にはH.ロールシャッハがインク染みを用いた性格診断法(投影法)を開発し、1928年にはペイン(A.F. Payne)が文章完成法(投影法)を開発。

日本においては、1919年、久保良英によって日本版ビネー式知能検査が開発されたのを皮切りに、様々なツールの翻訳・開発が始まり、1927年には心理学者の内田勇三郎がクレペリン検査(作業検査法)の研究発表をするなど、独自の研究も進んでいった。

このように各国で続々と開発された測定ツールであるが、人事テストに多大な影響を与えたツールとして外せないものに、1940年アメリカで開発されたミネソタ多面人格検査(MMPI:Minnesota Multiphasic Personality Inventory)がある。これは戦場下において、軍人の情緒障害が目立ったことを懸念した軍が、事前にそれを予見する方法として用いたものである。

日本で適性検査が本格化したのは戦後。その後も、
単なる検査ではなく総合テスティングサービスとして発達

イメージでは、現代のような能力・性格適性検査に近付いたのはいつからかといえば、それは20世紀前半を待たなければいけない。当時、世界的には能力・性格適性検査の基本技術が揃ってきていたのだが、日本では残念なことに、第二次世界大戦下、個人差を捉え、人や組織を科学的に測定しようという技術よりも精神の高揚策が優先されていた。そのため、測定ツールが本格的に展開するのは戦後、アメリカからの技術導入の後となることになった。

ここからは日本における開発に特化して適性検査の歴史を語ることにしよう。国をあげて適性検査が開発されたのは1952年。それが1943年にアメリカで開発された職業適性検査の日本版、「労働省編一般職業適性検査GATB:General Aptitude Test Battery」である。これは求職者を対象とし、職業ガイダンスに適用された。その後、GATBが事業用、つまり経営人事用にも提供されるようになったのは1987年である。

また、同時期の1960年代には、民間企業が経営人事に特化した能力適性検査や性格適性検査の開発を進め、採点や利用技術を含めた総合的システムとしての提供を始めた。ただし、ここで強調しておきたいのが、こうした開発者側の姿勢――テスト開発・出版だけでなく、適用(コンサルティング)まで行う姿勢である。このような総合的な提供というのは諸外国ではあまり見られないのだが、実はこのような適性検査サービスの総合的な提供は、適性検査が専門家のツールではなく、広く実務家のツールとして普及することに多大なる貢献をしたのである。また、このことは、適性検査の誤用を防いだだけでなく、適用現場からのフィードバックをもとに新たな研究開発を進めるという相乗効果ももたらした。日本は適性検査開発・提供が“総合テスティングサービス”として展開された極めて稀な国といえよう。

その後、日本における適性検査は、1974年、当時株式会社リクルートの一事業部門であった人事測定事業部が総合適性検査(総合検査SPI)を開発し、能力・性格などを一つのツールで多面的に測定し、総合的な人物イメージを把握できる検査として時代に受け入れられていった。

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企画・編集:『日本の人事部』編集部

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